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※一部、公開を許諾いただいた方からの体験談を匿名にて公開しております。体験談は、今後の研究の参考とさせて頂きますので是非お送り下さい。もちろん、許可なしに掲載はいたしませんので、ご安心下さい。

- 【Yさんからの体験談 自営業 49歳 兵庫県 女性】
- 末政先生、こんにちは!きょうは、とてもうれしい報告があります。ある就職試験を受けてくることができたのです!
たしか4年ぶりでした。その4年間は、在宅で仕事をしていましたが、再び外に出たいという気持ちになれたからです。私がそんな気持ちになれたのは、末政先生のテキストと出会い、自分を見つめ直すことができたからです。
きょうは、3月だというのに季節はずれの寒い日でしたが、なんとか無事に作文試験と面接を済ませてきました。試験の結果はまだわかりません。1人の採用に対して6人が応募していたのですから、おそらく期待はできないと思います。でも、ほんとうに久しぶりに公の場所に出ることができたことがすごくうれしいのです。
以前の私は外出することすら命がけでした。自宅の玄関のドアを開けた瞬間、心臓がドキドキしました。ひどいときは、ふとんから出ることもできませんでした。それでも、どうしても行かなければならない場所があるときは、極度の緊張のため朝から1滴の水も飲めずにいました。
ところがきょうは、早めに昼食を済ませて、リラックスして出発時間を待つことができました。そして、試験会場についてからも、不思議なほど落ち着いていたので自分でもびっくりしています。ちなみに隣の席の男性は緊張のためガタガタ震え、その振動が2人掛けしている長机の私のところまで伝わってきました。
私は時間や空間に縛られるのが苦痛です。その上、寒さには極端に弱いのです。この冬は暖冬だったため、きょうみたいな寒さは特別身にしみます。いつもなら、途中で逃げ出したくなっていたでしょう。作文試験の25分間は席を立つことができないことや、面接を待つ時間なども耐えられるものではなかったと思います。
でも、末政先生のテキストを読ませていただいて、自分の性格を客観的に見直すことができました。
そして、完璧すぎる自分の性格をむしろプラスに捕らえることができるようになれたのです。
もし、今回の結果がだめでも、それは自分のせいではなく、受験者のなかに自分以上にすばらしい人がいたからだと割り切るようにできると思っています。
私は、在宅で仕事をしていますが、やっぱり以前のように外でも仕事ができたらという望みは捨てていません。末政先生のテキストと出会ったのは、この就職試験の直前だったのです。また、今回の仕事の募集を知ったのは締切日の2日前、まったくの偶然でした。
私がいちばんうれしかったのは、末政先生はご自分の体験に基づく執筆をされていますので、同じ悩みを持つ私の心にストレートに響いたことです。誰かひとりでもいいから自分の気持ちをわかってくれる人がいたら、それだけで随分楽になります。末政先生は、患者の抱える悩みを先回りして、いろいろなアドバイスをしてくださっています。それは、専門医でも叶わないことかもしれません。
これからも、自分なりに無理せず、がんばらず、少しずつ歩んでいきたいと思います。 末政先生、ほんとうにありがとうございました。


- 【Sさんからの体験談 フリーター 22才 大阪府大阪市 男性】
- 末政様、本当にありがとうございました。このサイトでおっしゃっておられました「鬱病は克服できる、というメッセージを承りまして、半信半疑で申し込みました。今思うと鬱病のせいで疑心暗鬼だったんです。でも、鬱病を完全に解消する会のレッスンを読み進める中で、自分の気持ちがみるみる変わっていきました。
とても量が多かったので最初は読み切れるか心配してたのですが心打たれて丸々2日かけて読み切りました。御社サイトでもおっしゃられておりましたように、とても多くの情報があり、まだ全部は試していませんが、少なくとも試したい意欲がわいてきました。 今後取り組めるのがすごく楽しみです。


- 【Nさんからの体験談 IT関連会社員 33才 横浜市戸塚区 男性】
- 自分は今、とても多くの仲間に支えられていることを感じます。憎しみばかりが募った家族ですが、今はその気持ちも消えて全部許せる気持ちです。いえ、本当は自分が許してもらわないといけないのでしょう。
妻も、大学受験を控える息子のことで必死でした。私が働かないと息子の人生が台無しになってしまうと思っていたと思います。私は、このようないい年になっても甘えていました。みんなが自分に優しくしてほしい、そうじゃないといやだなんて、幼稚園児と同じです。アダルトチルドレンとは私の事だったと思います。ですが、御会で教わったことによって様々なものが氷解しました。メールで失礼な質問をしたときも、丁寧に回答して下さり嬉しかったです。
(※末政解説:宗教ですか?と質問されました。もちろん、宗教及び特定の政治団体など、あらゆる組織とは関係のないことをここに宣言します。)ちまたには怪しいものも多い中で先生と出会えたことは本当に幸運でした。この幸運が多くの患者に広がりますように。


- 【Mさんからの体験談 主婦 34才 福井県坂井市 女性】
- お礼のメールをさせてください。先生が大変なお仕事の末に鬱病になったことに対してわたしは主婦で近所付き合いと姑との確執で鬱的になったなんて、そんな程度で・・・と思われると思うととても怖く感じてました。でもレッスンを読んでるうちにちゃんと自分を認められるようになって、恥じることはないんだとなりました。
先生からいただいたお手紙を見せた時には、夫も理解してくれてとても救われました。もし精神科に通っていたら、きっとご近所や親戚にばれてたと思うと、末政先生には感謝するばかりです。料金も、¥9,800だけで、わたしはなんてラッキーなのだろうと思います。
わたしは、これからがんばります。そして、他に困っている人がいたときにはわたしも助けの手を差しのべます。わたしも、それが先生に教わったことへのお礼です。


- 【Oさんからの体験談 OL 東京都 女性 27才】
- この度は、誠にお世話になりました。○○です。私は自分の担当だったら医者がとてもひどく、誰も頼れないと悩んでいました。そうして苦しく過ごしている時、偶然このHPを見つけました。
インターネットでウツ診断をしてみたら、やっぱりというか、ウツだという結果でした。
他の心療内科にいこうか悩んでいた時に、鬱病を完全に解消する会を見つけました。その言葉の一言一言にとても熱い気持ちがこもっていて、とにかくやってみようと決意しました。医者が無理なら自分でやってやろうと思いました。
レッスンを読むとどんどん惹き込まれていきました。私は器用じゃないので四ヶ月くらいかかりましたが何とか実践できて、そこからは、落ち込んだり、泣いたりということは、どんどん少なくなっていきました。
今では、ウツの時の気分がどうだったのかも思い出せないくらいになりました。誰か困っている人がいたら、私は迷わずこのHPを教えます。本当に、ありがとうございました。これからも元気でお過ごし下さい。私も頑張っていきます!


- 【Oさん。教職 群馬県高崎市 男性 51才】
- 私も末政さんと同じように、数え切れないほど多くの病院を駆け回り、カウンセラーも評判を聞きつけては探し回っていました。でもやはり全く自分の求めているものではなく、半ば諦めながらも宝くじを買う気で探していました。
そして、また失礼ではあるのですが、末政さんのところも宝くじを買鬱もりで申し込みました。今まで外れ続けてきた宝くじが、ようやく当たったという気持ちです。宝くじは、買わなければ当たらないって本当ですね(笑)
まずは末政さんからいただいた手紙を家族に読んで貰って、とても態度が改まりました。少し気は引けたのですが、こうやって気を遣って貰うことで自分が早く改善したらそれが一番家族にとっても有り難い事なんだと思い、協力をお願いしました。
また、こちらの方法だけでも大丈夫だと思ったのですが、せっかく教えていただいた素晴らしい医者の見つけ方を試してみました。そして、その甲斐あって、信頼して任せられる医者と出会うこともできました。
その効果は期待以上で、医師の腕でこれだけ差があるなど、信じられませんでした。抗鬱の薬も適切に頂いて体で実感出来るほど回復していきました。
今は、平和で静かな日常に戻っています。鬱に悩んでいたのはもう遠い過去のようですが、もちろん末政さんへの感謝は忘れていません。もし群馬に来られることがあれば是非一度お酒でも。(笑)お礼に、奢らせて下さい。


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同じように鬱病で苦しんだ皆さんへ、メッセージをいただきました。 少しでも皆さんに勇気を与えることができれば幸いです。

- 蘇生への道<プロローグ>
- 私は、もうすぐ50歳になる独身女性、正確には離婚歴のある女性です。夫と別居、離婚成立してからもしばらくは実家に身を寄せていましたが、ひとり暮らしを始めてこの春で15年になりました。
私は、先天性股関節脱臼による4級の障害者で、結婚後に症状が出るようになりました。また、離婚にまつわる極度の緊張感から解放されたころから、精神的な不調にも悩まされることになります。それも、「ふれあい恐怖」「不安神経症」「自律神経失調症」「パニック障害」など、多岐にわたるもので、もちろん「鬱病」もそのひとつでした。
このたび、鬱病を完全に解消する会と縁することができました。最初は、実際にテキストの内容を自分の目で確認するまでは少し不安がありました。しかし、末政様のテキストを読ませていただくうちに、自分が思い描いていたことが取り越し苦労だということに気づきました。私なりに感じたテキストの特徴は次の通りです。
テキストはPDFファイルになっております。最初に全部のページ数が表示されますので、それを見てページ数の多さに大変驚きました。ところが、全体のレイアウトや字の大きさも、苦痛なくどんどん読めるように工夫されています。
また、このサイトの体験談にもありましたが、宗教団体とは関係なく、誰でも読んで納得できる内容になっています。また、新たな商品を勧められるのではないかという不安もありましたが、そういったことはまったくないということがわかりました。そして、山ほどある「鬱病」関連のサイトや著書と決定的に違う点は、末政様自身が体験されたことをベースに運営されているということ、そして本当に鬱について一生を賭けて取り組んでいるということです。いわゆる「かゆいところに手が届く」、読者が持っている不安を的確に把握して、同じ目線で執筆されています。
この会は、鬱病に悩む読者にとってはほんとうに力強い味方になり、勇気百倍です。
私も自分自身の体験と重ね合わせ「やっぱり、そうなのだ」「もっと早く末政様のサイトに出会いたかった」というのが正直な気持ちです。今回、この場をお借りして自分の経験してきたことをお話させていただけることは、大変幸運なことだと感謝しております。もう封印してしまいたいことを「書くこと」は、当時のことを思い出すことになり、とてもつらいことです。しかし、あえてそうすることにより、自分の気持ちを整理することができると思います。
また、これを読んでいただける方が、ひとりでも元気になってくだされれば、それ以上のよろこびはありません。 - <ふれあい恐怖>
- 私が本格的に心身に不調を感じるようになったのは、離婚が成立した直後の平成元年のころでした。
昭和62年9月に夫と別居してから、離婚成立までは1年3カ月ほどかかりました。当時、両親と弟夫婦が暮らす実家に肩身の狭い思いをしながら同居。空しく時間が過ぎていくだけでした。そして、ようやく「離婚届」にハンコをもらい、一安心したころから私のなかである変化が起きるようになったのです。これは、にわかには信じてもらえないことかもしれませんが、ありのまま書かせていただきます。
なんと!私は、人前で食事ができなくなったのです。それも、自分と親しい人との会食ができなくなってしまったのです。その背景として、異常なほど私を支配していた夫の存在がありました。夫は、私の大好物のコーヒーを飲むのを禁止したのでした。そのため、私は台所の戸棚や流しの下などに瓶を隠して飲む生活を続けていたのです。その反動も手伝い、夫から開放されたとたん、人前での飲食ができなくなったのです。
その後、職場や仲間との会食をする上でも大きな障害になりました。「ダイエットしているの?」と、何気ないことばにさえも、自分は支配されているとの思いが強くなり、立ち直れないほどの打撃を受けることになるのです。
当時、新聞記事の特集で、こういう症状が若い世代に多いと知りました。いわゆる「ふれあい恐怖」というもので、知的活動ができ人前で発言ができても、個人的な接触ができないのが特徴だそうです。 - <クーラーが怖い!>
- そんな私に新たな試練が待っていました。平成3年6月。小雨降る肌寒い日曜日、何度か訪れたその場所へと、JRからバスに乗り換えました。目的地までは、20分ほどかかります。いつもは特別意識することもなかったバスへの乗車。しかし、そのときは何かが違いました。バスの座席に座ると、頭上からザーッというエアコンの音と、寒いほどの冷気が降ってきたのです。
夏場バスや電車を利用するときは、いつも上着を持って冷房対策にしていました。しかし、その日はそれでも寒かったのです。どうしょう、一度降りてから次の便にしようか。ぎりぎりまで迷いましたが、結局そのまま。不安な心の私を乗せたまま、バスは発車しました。間もなく、どうしようもない動悸と息苦しさに襲われたのです。そして、目的地までのわずか20分の間我慢することすらできず、バスを途中で降りてしまいました。まさか、そのときの恐怖体験が、その後10年にも及ぶ苦しい日々を送るきっかけになろうとは、つゆほどにも思いませんでした。
その当時勤めていた職場の冷房は旧式で、羽根の向きにより送風を調整するタイプのものでした。フロアに2台ある機械のうち、1台の冷気をまともに受けたまま、電話交換や経理事務をすることになります。冷気の冷たさに加え、ゴーというすごい音のため、ついには車のエンジン音を聞くだけでも目がまわるようになってしまったのです。電話交換の最中に逃げ出せない!しかし、仕事は休めない!毎日毎日、文字通り死ぬような思いで出勤していました。
私生活でも、趣味の音楽を通じてコーラスのピアノ伴奏や演劇のBGM演奏などの活動をしていましたが、そこでも頭上から降る冷気に悩むことになります。ピアノ伴奏の途中で逃げ出せない! 他の人に心配をかけてはいけない!その責任感が、事態をさらに悪化させたのです。自分で勝手に「クーラー恐怖症」と名付けていましたが、そう言って笑っていられるうちはまだよかったのです。
平成6年1月、実家の母が交通事故で急死しました。その直後に、仕事の資格試験を受けに行くなど、当初はわりと元気でした。葬儀のときでさえ、人前では涙を見せなかったくらいです。突然のことでもあり、また、死に目にもあっていないので、母の死はひとごとのように感じていました。
それを現実として意識したのは、半年後の暑い夏の日でした。前々からどうしても行きたいところがあって、最寄りの駅から冷房の効いた電車に乗り込みました。電車が動き出すと同時にやっぱり激しい動悸・息苦しさ。駅に停車すると治まります。しかし、動き出すと同じことの繰り返しで、とうとう途中の駅で途中下車してしまいました。ほんとうに困ったのはそれからでした。来た道を引き返さなければならない。歩いて帰るわけにはいかない。もし、実家の母が生きていたら、ぶつぶつ言いながらでも車で迎えに来てくれるのに、もうそれができないことに初めて気が付いたのです。 - <歩けない>
- 母と死別したのは35歳のとき。母は58歳、仕事帰りの事故でした。
経済的事情でストレートに進学できなかった私は、2つの仕事をしながら25歳で短大の通信教育部に入ります。そして結婚は27歳という当時にしては晩婚。しかし、結婚直後から主人側とのトラブルが絶えず、翌年結婚した弟夫婦さえも巻き込むことになります。本人同士の結婚というよりも「家」を重んじた主人側。不当な扱いをされながらも延々と延ばされ、何の補償もないままでの離婚。そして、先天性股関節脱臼の悪化による手術。母が亡くなったのは、平成4年に私がひとり暮らしを始めてわずか2年足らずのできごとでした。その2年の間、経済的事情により不自由な思いをさせた子どものころを取り戻すかのように、母は実家に内緒でいろいろな面で応援してくれました。
しかし、そんな母に対して、私はやさしい言葉すらかけることができなかったのです。母を失ったことよりも、母に対して何もできなかったことに対する自責の念にかられ、精神的にどんどん悪い方へと向かうようになります。
母が亡くなった直後、初出勤の日、私は資格試験取得のため予定通り泊りがけの出張をしました。突然の事故死だったこともあり、また、試験は別の日でも間に合うからと、上司が気を遣ってくれましたが、仕事と私生活は別と自分に言い聞かせてのことでした。
私は、身体に障害があるというマイナス面があるため、仕事では完璧を目指していました。そして、それ相当の結果も出してきました。前述の資格試験に最短距離で合格したのも、そのひとつでした。
しかし、それをよく思わない人たちも少なからずいるものです。仕事で真っ向からの勝負が叶わないとなると、その人たちは私の身体を攻撃の的にしたのです。重いものを持つことや、階段の上り下り、また、まっすぐに歩けない姿を指摘するのです。来客の多い職場で、お茶を出さなければなりません。そのとき、来客の手前もあるから、まっすぐに歩くようにと、とうていできもしないことを要求されたのです。また、冷房の季節に上着を着込み、ズボンを履くことにも難癖をつけられました。男性職員は派手な私服姿でも許されていたのですから、これは女性に対してのいじめ、あきらかに私個人に対してのいやがらせでした。
精神面でのストレスがもともと悪い足にも影響を与え、ついには出勤しようとすると足がしびれて歩けなくなってします。また、昼食はアパートに帰って摂っていましたが、午後出勤しようとすると、動けなくなるのです。そんな日々が重なり、平成7年6月末、ついに退職することになったのです。かといって、退職願いを出してから1カ月は勤めなければなりませんでした。もう、心身ともに地獄の日々でした。最後は、週のうち半分は仕事に出られない状態でした。 - <出口のない日々>
- 当時、市街地で息が詰まるような6畳1間の生活。その年の9月、季節の変わり目には、激しい動悸で何日も眠れず、身長159cmに対して32kgにまで痩せてしまいます。
在職中、足の検査のため行っていた病院で、いったん会計を済ませた後、「神経科・精神科」の門を自ら叩き、そこで「自律神経失調症」との診断を受けていました。動悸・息苦しさだけでなく、いろいろな症状が出ていました。主治医の先生は、私の症状に名前をつけるのに慎重になっていました。当時、いまでいう「心療内科」に対する普及も少なく「鬱病」に限らず「心の病」に対する世間の理解もなかったからです。また、「不安神経症」「心臓神経症」との判断もつかなかったのかもしれません。しかし、症状から考えると、明らかに「鬱病」の条件が揃っていました。ただ、私はひとり暮らしですので、どんなことがあっても自分で生活しなければならない。ただ、その思いだけで生きていました。
同年(平成7年)11月、2DKの部屋に移りました。少し広い空間で、精神的にもゆとりができるのではと期待をしていました。 しかし、スーパーへ車で行くためのたった1つの信号を越えること、スーパーのレジの順番待ちに耐えることなど、外出すること自体が命がけでした。とにかく「なにかに束縛されること」「逃げられない状況になること」が耐えられなかったのです。どうしようもない息苦しさ、動悸に襲われるのです。そして、それをまわりの人に知られたくない、倒れてしまって人に迷惑をかけたくないという気持ちも働くのです。
ところが、逃げられない状況から離れると、まるでうそみたいに症状が消えるのです。 いつも、その繰り返しでした。
そのころになると、私の身近な人の中には、私の一連の症状を知る人もできました。しかし、私自身も後に「パニック障害」ということばを知ることになりますが……。
それを正しく理解してくれる人はいないといっても過言ではありませんでした。
また、私自身も心の病を知られるのが嫌で、何かあると足の具合が悪くなったことにして逃げていました。 - <楽観主義のきっかけ>
- 平成10年3月、将来の生活設計を考え、市営住宅に引っ越すことにしました。市街地から車で30分、他府県との県境で激寒の地。体にとっても良いはずはありません。仕事を辞めてから1年半の間受けていた傷病手当、次いで雇用保険も切れ、本格的に就職活動を始めますが、既に40歳を越えた上、身体に障害がある私(パニック障害のことは隠していました)を雇ってくれるところはありません。中には、九分九厘OKを出しながらも「障害者手帳」を見せたとたん、顔色を変えた企業さえ出てきたのです。
そんな悔しい思いを何度もしながら、月1万円前後にしかならない内職をしました。その年の秋、周に2日午前中だけ作業所に行き、何年かぶりに外での仕事を体験することとなります。午前中だけとはいえ、最初は時間の過ぎるのは果てしなく長く感じられました。
そして、平成11年早々、地元役場の福祉関係の人から「地域振興券交付事務」の仕事の話がきました。期間は30日(1カ月半) 冬の1番寒い時期で、しかも人相手の仕事。悪条件ばかりでしたが、少しでも現金収入が欲しくて受けることとなりました。そのことがきっかけで、その後半年以上の空白を経て、合併後の市役所の日々雇用職員として採用されました。
知らない人の中での苦手な接客、毎日の出勤がまた命がけになりました。しかし、以前の私とはどこかが違ってきていました。その中のひとつとして、不便な地域に越してきたお陰で、どこのスーパーの何が安いといった小さなことにこだわらなくなったのです。いくら安い商品があっても、それだけを買いに車で30分もかけて行くことはできません。いい意味での開き直りができるようになったのです。 - <ありのままの自分でいたい>
- 私は、音楽が趣味で、作詞・作曲あるいは即興演奏が得意でした。人前でボランティア演奏の経験もあります。また、地元のコンテストに入選したこともあります。
ところが、平成11年秋、知人が私のオリジナル作品を勝手に改ざんして演奏するというとんでもない事態に遭遇することとなります。ところが、当時の私は、自分の作品を勝手にいじらながらも何も言えなかったのです。自分の価値観を卑下していたからです。
そんな私を見ていたある先輩が激怒しました。「作品は自分の子どもみたいなものでしょ!自分の子どもを守れない母親がどこにいるの!」そのとき、彼女のひとことが私の体に流れる何かを変えたのです。そして、その貴重な体験をもとにつくった詩が、人権関係の作文コンクール・佳作に入賞します。
嫌なことははっきりNO!と言える勇気。自己主張ができるようになった私は、自分自身の存在をプラス思考でとらえることもできるようになりました。それまでは、他人から頼まれるとどんな不本意なことでも、また、どんなに体調が悪くても絶対NO!とは言えなかったのです。その心の奥には、自分はハンディのあるひとり暮らし。もし、NO!と言えば相手は嫌な想いをして、自分から遠ざかっていくかもしれないと、まるで、犬がしっぽを振るみたいに相手の機嫌を取っていました。
たしかに、いくら不本意でも相手に合わす必要があることも出てきます。しかし、そんなときでも強い自分の意志を持って、流されないことが必要だと思えるようになりました。平成14年年明け早々、非情にもリストラの話がでました。しかし「はい、そうですか」とは引きさがりませんでした。以前の私だったら、どうせ自分なんか生きていても仕方ないと、卑下して自己嫌悪に陥っていたと思います。将来を悲観して、最悪の場合自分の命を絶っていたかもしれません。
もちろん、最初は奈落の底に突き落とされたような大きいショックを受けました。話を聞いてもらえる人には、かたっぱしから電話しました。抗議文を出せるところには全部送りました。少し落ち着いたとき、自分の運の悪さにふとんをかぶって泣きました。そして、数日が過ぎたとき、ほこりをかぶっていたキーボードに向かう自分に気がつきました。
私は、自分でつくった作品(音楽)をCDにまとめることをひそかな楽しみとしています。その年の初めには、8年間してきたコーラスのピアノ伴奏、その演奏テープをまとめました。録音状態はけっしてよくなかったのですが、いつか1つにしたいという願いはかないました。そして、演奏内容を改めて聴いて驚きました。精神的に追い詰められてどん底のときにも、いや、どん底のときほどいきいきと、のびのび演奏していた自分を発見したのです。それほどの生命力が自分にあったのかと、信じられない気持ちで一杯でした。
できあがったCDにすっかり気分をよくしていた矢先、リストラの話が出たのでした。
股関節脱臼の手術のため、十分なペダル操作ができなくなり、ピアノ演奏からは遠のいていました。キーボードはペダルこそ使いませんが、激しい演奏は腰に負担がかかるので、それも長らく弾いていなかったのです。それでも、弾かずにはいられなかった!ただ、自分の演奏テープを聴くだけでは心が安まらなかったのです。そして、たまたま人前で演奏させていただく機会に恵まれました。演奏後、体の激痛に悩むことにはなりましたが、こんな自分でも生きている、こんな音楽がつくれるのだと人前でアピールすることができ、すごくうれしく思いました。
よく考えてみると、順調なとき(私の人生ではほとんどありませんでしたが)よりも逆境にあるときのほうが、音楽にしても詩にしても創作活動にしてもいい作品が生まれているのです。 - <エピローグ>
- こうしていろいろな問題を克服してきた私ですが、まだまだ課題はあります。身体の状態はさらに悪くなり、演奏活動はできなくなりました。しかし、それ以上に自分が精神的に強くなり、新しい分野での活動を通じて自分の価値観を見出すこともできました。
病院のカウンセリングでのひとこま。「自分が大嫌いです!」 でも、今は違います。私は、こんなことができる。私にも、こんな可能性があるのだ。ハンディのあるひとり暮らしで、いてもいなくても社会には何の影響もない、そんな存在感の低い私でも、他の人にはできないことでもできることがあるのだと、そう思い積極的に活動した結果、運よくこのサイトを知ることもできました。そして、末政様のサイトに共感を得る点が多く、たくさんのエネルギーをいただくことができました。これから先、自分の未来が大きく開けていくように感じます。 -










